「編集」の軽さ。

建築とネットと編集の話。いくつか。

  • 1.コミュ

一応、建築の世界の片隅に属しているわけで、なんとなく建築業界の動向についてはわかっているつもりな私。そんな建築業界の中で一大勢力というか流行していると思われるtwitter。インターネットの普及、その活用という点で流行ってきたもので、建築系ラジオなんかもある。

至極簡単にまとめると「実際の建築を無しに、言葉を介して表現する」という事だと思います。実際に触りながら、見ながら会話をするという事はほとんど無いし、ましてネットを介して建築を語る時は無いのが当然だし、ネット上の建築など(今のところは)ありえないもの。


まぁその「言葉や文章」で表現するという役割、これまでそれは本が担ってきました。「装飾と犯罪」しかり、「輝く都市」しかり、「家族を容れるハコ」しかり(?)、大きな影響を与えてきたものもたくさんあります。

とりあえず、そうしたコミュニケーションが形を変えてきた、と考えておきます。

※写真が豊富な雑誌等は言葉がいらないけれど、説明をするには文字が必要だといえるのかなと思います。この記事では文字を介したコミュニケーションに注視してます。


  • 2.文字と記憶

脱構築ではないけれど、文字や文章というものは、模様でしかないという考え方があります。文字それ自体に意味はなく、文字(模様)を見て、自身の記憶や思考と結びつける事で意味が理解できるものです。無意識的にその作業を行っているんだという事を理解してます。
ココで言えるのは、文字は文字として読むけれど、記憶と深いかかわりがあるのだろうという事。文章を読んで建築の話とリンクさせるには建築の知識が無いと難しいし、見た事のある建物についての記述であればそれを思い浮かべる事が出来る。


まぁでも、実物が無いのにその話をしなければならない、それはどんな業界でも当然か。。。ある事象を説明するために文章を書くんだし、小説は想像力を喚起するもの。


  • 3.本と編集と記憶

本では挿絵や写真を文章の側に配置して、イメージを喚起する事が出来る。建築でも何でも挿絵は重要です。伝えたい事を伝えやすくする事ができる。

本の編集には相当な時間が掛けられます。文章を考えて、編集に校正に色々と。一番インパクトのある配置はどうだとかいくつものポイントを考えなければならない。

本は永遠に残るものだとか言われるけれど、永遠に残すための労力がきちんと掛けられているんだと思います。記憶の中から消えてしまっても、本を読めば知識がきちんと残っていると考えれば、外部記憶装置の初原的な形なんじゃないかと。

ツイッターやら建築系ラジオやら、相当数の書込みやログやらがあるはずだけれど、それらはきちんと編集され永遠に残すためのものとして作られてはいない。人に見せるものとして、お金を出させるものでは決してないと思う。

なにか訴えたい事があるわけでもなし、マニュフェストがあるわけでもなし、只の惰性で続けているのだとしたらさらにキツイデスネ。




ネットの情報に価値が無いと思えてしまう自分が怖いっす。

ネット上で得た知識は価値が無いはずなのに、そこで生まれた感情は確かに現実で・・・みたいな話は気持ち悪いけど実際にそう感じてきてしまう。



思った事がそのまま不特定多数の相手に伝わってしまう状況ってのが価値を生まない、価値が低いと感じてしまう原因かとも思う。

「編集する」この行為が価値をきちんと表してくれるのでないか、そーオモタ。


支離滅裂でした。