感覚の自由。

帰り掛けに電車に乗ってたら人身事故がありました。

桜上水で各駅に乗り換えると、それまで乗ってた急行が発車してすぐアナウンスがありました。

事故に遭った人には申し訳ありませんが、それまで読んでいた本と関連があって凄く関心しました。


読んでいたのは10+1の50号。最終巻。

の、黄色いページ。

の、木村覚のオルタナティブ・ダンシング『「死体」について』というモノ。

事故と死体って言うとかなり直接的だけど、タイトルにもあるようにダンスと死体の関係性についての記述。



今まで知らなかったけどダンスには流派というか種類っちゅーのがあって、「死体」とダンスから連想されるものに暗黒舞踏ってのがあるんね。

暗黒舞踏 - Wikipedia

wiki暗黒舞踏のページは何が何やら・・・

暗黒舞踏における「踊りとは命がけで突っ立った死体である」という言葉があります。暗黒舞踏の簡単な説明として10+1では能動的アクションでなくて、受動的なリアクションのダンスであると解釈されてます。

音楽無しに身体ひとつで何かを表現するという表現方法は明らかに外部からの影響を受けるし、稽古においても突拍子もないような事態を想定してそれを表現する(?)やり方みたいだし。

10+1ではダンスとの比較検証として、相撲について言及してます。相撲用語で「死に体」というものがあり「力士の体勢がくずれて立ち直ることが不可能な状態」のことを言い、これとかけて「死に体」は完全なる受動性として考えられ、暗黒舞踏と繋がる(関係性が考えられる)。

まとまってないけどこんな感じ。



もひとつ。

人間は身体と行動(感情)に分けられるのではないかという記述。

身体は感情に付随するものであり、単に容れ物として捉える事ができるのではないかと。

電車の中や道端で携帯電話に没頭している人を見ると、筆者はそいつのことが気になって仕方ない、不快だと感じるらしく、ボタンを入力するということに集中していて、周りにいるリアルな人間との関係を拒絶、あるいは無視していることがある。と感じるらしい。

この状態の人間を単なる容れ物として捉えることができ、死体と同じで、自分から何かをするという能動的な行動が期待できない。と。


ここでは初音ミクについても言及されてました。

容れ物としての人間とは逆に、初音ミクはあくまでソフトでありながら感情(無いけど・・・w)とか行動(歌うという行為。擬似的だけど・・・ww)が基本的なものとしてあり、容れ物が後から(これも擬似的)成立している。


能動的なアクションが先に立ち、体は後から付いてくる。



こーゆー記述とゆーか考え方が出てくる理由として、外部と内部の関係性の希薄化が挙げられる。ずーっと前にも書いた(よな?)、動物化とタトゥー・ペイントの日記に関することと繋がるかな。

自己のアイデンティティを表現するためにタトゥーを彫れる。感情が自分を表現するものでなくて、容れ物自体が自分を表現するための道具。この段落だけ見ると暗黒舞踏とは逆の能動的なアクションであるとも言えるけど、容れ物に傷を付けても平気ってことにもなる。

容れ物に関しての大切さとか連動性とかが希薄になっているんでしょう。死体にタトゥー彫れても痛くない、とゆーより感じる事ができない。


内部と外部の断絶性だったり、コミュニケーションの新たなカタチというコトでしょー。

こーゆーコト書くとヘルツォーグの建物を思い出す。



まーそんな感じで。