至極当然。
読破。
細かいトコを除いて関心のあったフレーズのみを。
んで内容がアニメとかばっかなんで、それを無理やり建築的に翻訳でも。
変な感じにならなければいいですが・・・
- 「キャラクター」というものは転送可能だけど複製不可能で、「キャラ」は転送不可能で複製可能であり、「キャラ」のリアリティは複製によって増幅されるのではないか。
伊藤剛著「テズカ・イズ・デッド」の中での、物語の中で立っていく存在を「キャラクター」と呼び、物語を取り払っても存在するキャラクターそのものの力を「キャラ」と呼ぶ定義を用いての言葉。
実に都市計画的に置き換えが容易な文だと思う。錯乱のニューヨークやラスベガスなどで考えられた建築的アイコンなんかを考えればイイかなと。
都市を物語としてまず置くとすると、その都市の中に立っている建物を「キャラクター」と呼ぶことは可能である。「あの角の向こうの建物」「公園の隣の建物」などと、都市における建物の場所性が物語におけるの登場人物の存在と同様のものと考えられる。
ここで都市について考えてみると、コルビジェのインターナショナルスタイル(ミースの均質空間とかも)など、まるで国際規格であるかのように超高層ビルが世界各地に乱立していて、これはある意味「複製」であるといえる。
このお陰で「都市」といえば「超高層ビル」というイメージが出来上がり、どこでも同じような場所が出来上がりまるでハイソな気分に浸ることが可能になった。
現在ではそれが普通であり、そのジャンクな雰囲気が「リアリティのある」都市の姿になっていると考えられる。
こう考えれば上記のキャラクター/キャラ、転送/複製、可能/不可能という関係性とリアリティの知覚の説明ができる。
- 「動物化するポストモダン」において提唱されたシミュラークルとデータベースの二層構造に加えて、固有名というものが重要である。
上でも触れた「○○の隣り」のように、都市における場所性を示す言葉で○○に入るような固有名が建築家にとっても、住人や利用する人など一般人にとっても重要なものである。
実際に○○に入る言葉として挙げた公園でも代々木公園と言ったら、それだけで「はい、あそこね」と認識可能だし、吉祥寺で「PARCOの近く」と言ったらすぐにわかるし、国会議事堂と言えばわかる。
それが例え正確な場所や形態や何の機能があるかなどがわからなかったとしても、ある程度の情報を含んでいるので(もしくは情報を探索することが可能なので)、それと他との関係性も分かりやすい。
てゆーか「○○に集合」とか言われたらそこがわかってなきゃダメだし。まぁ認知されてるかどーかともかかわるけど。
地図なんかもそれはかかわっとるね。
よーやく次に行けるタイ。
錯乱すっかな。