草間彌生展へ行き、幻覚と記憶と厚みについて考えた。

武蔵野市立吉祥寺美術館で開催中の『草間彌生展 ワタシというナニモノかへの問い』へ行ってきました。

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正直いって、これまで草間彌生の事は何も知りませんでした。字面に見覚えはあったけど読み方がわからず、当てずっぽうでヤヨイとは読んでいたけどホントにヤヨイって読むんだなぁって驚いてたぐらい。作風も作品自体も全く知りませんでした。

そんな人間が思った事を書きます。

*始めの2つは、私が草間彌生とはどんな作家なのかを確認するためだけなので、3つめ以降の「印象に残った物」の所だけ読んでいただければ良いかと思います。



  • 導入

彼女の創作イメージは、彼女自身の幻覚・幻視経験に基づいている。幼少の頃から、草花が人語を話す、自身が見ている情景に飲み込まれ自分が消えてなくなる、といった体験をしているとし、それをイメージした作品を作っている。彼女がモチーフとするものは、草花や野菜や人など普遍的な物が多いが、それが何らかの隠喩となっていたり、モチーフとする物がメッセージ性を持つことは無いようだ。彼女は農園(造園?草花に関するものだったはず)の家庭に生まれ、小さい頃から草花と接する機会も多く、草花を愛していた事がモチーフとして利用している事に繋がっている。

  • 描方

点描とは「点で描く」描方の事だが、彼女の描方も点描の1つか。彼女が使用するのは、一般的な点描のように微細な点よりも遥かに大きな「点」で、「まる」とか「水玉模様」とかいった表現の方が適切。

といっても「点で描く」のでなく、彼女がイメージする(体験する)世界の中での微小な単位が「点」であり、物体を「点の集積」として感じ取っているのだろうと思う。思うに、南瓜の作品などに極端に表現されている。膨らみの手前と奥(この表現でわかるかな?)では点の大きさが異っており、違う部分である事が明確に表現されている。その一方で全ての膨らみでこの表現が巧まれていることから、膨らみを表現するための技法、もしくはそういう「点の集積」と感じ取っている、のかなと思う。


  • 印象に残った物

ある文章と共に掲げられていたある作品でしたが、文章を全く覚えていません。彼女が出版した本からの引用だったように思うが、如何せん長い文章だったので内容を感じ取るだけで精一杯でした。

『世界は常に動いている、固定して普遍なものなどありえない。まして、そうした動き続けているものを小さなキャンパスの中に閉じ込めるなど絶対に不可能だ。ここに示す物は、ここに示す物全てを示したものではない。ここに示す物は、ここに示す物全ての内の部分に過ぎない。』

みたいな事が書かれていたように思う。全て自分の言葉だが、大体にして内容は合っていると思う。絵自体はモノトーンで繊細に描かれており、彼女が「Infinity nets」とする一連の網目の作品に似たものであった。動いているとか、全体や部分といった言葉、そして彼女のモチーフとする草花といったものを鑑みると「葉脈」や「細胞」といった目線に近いのかなと考えている。実際、葉脈を表現している作品も多い。

キャンパスの外にも「それ」はあるのだ、って事なんだろう。彼女が体験している事が二次元、しかも小さなキャンパスの中で表現できるはずもない、と。キャンパスに向かって絵を描いてきた一方で、キャンパスだけでは表現しきれないという葛藤があったのだろうと思う。インスタレーションや空間展示といった事もしているという事で、「それ」を実践的に表現しようと挑戦している事からもそのような葛藤が窺える。

拡大解釈して自分の領域に引き寄せると、今和次郎考現学とも一緒だと思う。社会や世界の全てを記録するのは無理だけれど、ある範囲の中ではこのような状態なのだと理解するような感覚。早稲田ぐるりみたいな感じで、ここから先にも街は広がっているけれど「例えばこの範囲ならどうだろう」と採集しているような感覚。




これとは別に彼女の幻覚・幻視体験の一端を垣間見たんじゃないかと思える作品がありました。「靴」という作品。

この靴には厚みが無い。

靴の生地の表面は点の集積による模様が描かれ、生地の裏は葉脈のような模様が描かれています。この生地の切り替えが一本の線で表現されている事に目が行きました。確かに、女性物の靴であれば生地が薄くて軽さを強調するものもたくさんあるし、彼女がそうした靴をモチーフに選び、その通りに表現したのだとしたら、僕は言う事が無くなってしまいますが。。。

彼女が体験する世界の中で、厚みとか重さといった感覚は序列として低いんじゃないかと思ったわけです。彼女が体験する時に重要なのは点や模様といった視感覚で受け取ることのできるものに限られる、というより幻視というのは得てしてそういうものなんじゃないかと思う。

例として挙げますが、果物を正確に描こうとする場合、その果物を見ながら描く事が一般的だと思います。人や風景を描くときも同様で、自分が現在見ている物を手掛かりにしてキャンパスにコピーしていけばいいのだから、その形や厚さといったものまできちんと表現する事が出来る。少なくとも俺はそうだ(設計したりなんだりの時は除くけど)。
けれど、彼女が残そうとしているものは自分の幻覚・幻視体験であって、自分の記憶の中にしかモチーフは残っていない。イメージをキャンパスに残す時に手掛かりに出来るのは自分の記憶だけで、しかも彼女が感じ取るイメージは点の集積によってであることを踏まえると、そこには重さや厚みといった概念が抜け落ちている事になるのではないか。
実際の果物には触れる事が出来るが、自分の記憶の中の果物に自分の手で触れる事は出来ない。実際の果物の裏側がどうなっているかと引っくり返して確認する事は出来るが、記憶の中の果物の裏側は確認する事が出来ない。触れる事も動かす事も出来ず、自分の目線を動かす事も出来ない。その対象が3次元的で立体的で実存的でとても現実としか思えないモチーフであっても、2次元的に表現されざるを得ない。どう足掻いても2次元でしか受け取れない。
幻覚・幻視体験それ自体は、感覚的には3次元なのだろうと思うが、触れる事の出来ない記憶の中でしかそれが再現されないものである事を踏まえ、さらに確認作業が出来ないという再現性が無い事を考えると、厚みや重さという無いのも理解できてしまう。



そんな変な事を考えていました。


改めて草間彌生の作品の画像を見ていたら、「影」が表現の中でひとつもない事に気付いた。細田守時かけを思い出したけど、あれとは全く別で無意識なんだろうなと思います。もしかしたら、影があったら現実に近づいてしまうという意識を持っていて、意識的に影を表現していないのかもしれないが。。。どっちにしろ正解が見えてこない。。。苦笑