「可能性」を感じる。

はぁー。と感心したことを。

理系と文系の明らかな違いに関するコトで。


「可能性」「自立」「新しい」「開かれた」というような名詞、形容詞についてのコト。

そうした言葉は理系の人間にとっては、常にポジティブでイイ意味と考えるけれど、文系の人間にとってはネガティブで悪い意味と捉えている、ということ。


僕も建築系だし、ちょいと前までは理系人間の考え方でした。

新しい建築様式が生まれたのは、新しい材料・構法が生まれたことと直結するのだ、と考えていましたし。

実際それまでにない空間(この言葉に対する信用も無くなりましたが。。。)が生まれたわけだし。




対して文系の論理では、新しさは「崩壊」を意味し、「危険性」を意味し、「破壊」を意味するそうです。

新しくなることで「無くなる」ものや「失われる」ものの方を見ているといえるのかなと思います。

よくわかる例として、街灯の存在を挙げられるかなと思います。

街が発展することで、街灯がいろんな場所を明るくしました。都会では街のいたる場所がオレンジ色の光で照らされて、夜になっても暗い場所は少なくなりました。
谷崎潤一郎の「陰影礼賛」にもあるように、日本の文化の中には暗い場所との関わりがあったように思います。

街灯、というより電灯だけど、それによって文化がひとつ失われた。


明治維新期には西洋の様式が取り入れられ、椅子座の生活様式に変わりました。そうすることで日本独自の「畳」に「座る」という行為から距離を置くことになりました。
これも文化を失うことに繋がっていると思います。



現在、僕は建築史の分野に浸かっているわけだけど、近代建築が生まれたことで、そこまでイイものが生まれたのか?といった疑問も考えます。



まぁなんつーか、言葉にはポジティブにもネガティブにも捉えることができると。

というか、知らず知らずのうちに言葉に対してイメージを持ってしまっている、何かしらのインスピレーションを得ている。



というようなコト。