時も空間も移動しない「乗り物」としての本。
まず、前の記事のまとめ。
能動的、受動的、主体、従属、などのまとめ。
- 本を読む
語意としては「ヒトが本を読む」になる。ヒトが主語。
情報の伝達方向は「本→ヒト」になる。本が主体。
- 受動的
本は、ヒトに読まれないと行動できない。
ヒトは、本が情報をくれないと読書できない。
メッシーナの絵画の消失点は、聖ヒエロニムスの顔と本の間にあるということで、絵画の主題は「読書」という行為そのものにあるとされています。
今回のコンペも、その点に着目したといえます。
この点で、読書という行為の特徴を考えてみると、上記の2点が考えられました。
新たな視点として、時間軸で捉え直してみると、読書をしている間だけ「ヒト<本」という力関係になるのがわかります。
読書が始まるまでは、ヒトが読むかどうかを決めますが、読書が始まってしまえばテキストに従うしかない。
つまり、読書をしている間だけは、主体が入れ替わり、「ヒトが本に従う状況」が作り出されていることになります。
明らかに奇異な現象です。電車に乗っていて、隣のヒトが本を読んでいたら、その人は「本の奴隷」みたいな感じ。
前回「読書家は全員ドMです」と書きましたが、あながち間違っちゃいないなぁと思いました。
「明らかにおかしいけど。。。」とも書いたけど、これも間違ってない。
読書をしている間は、テキストに従うしかないわけで。
けれど、その状況からはいつでも抜け出せる。
読むことをやめてしまえばいい。そうすれば「本の奴隷」ではなくなる。
これを奴隷側から選択できてしまうというのは、今後の課題かな。。。
読み始める時に、ヒトに主体があるのはわかるし、読書中には本が主体であるということもわかる。
読み終える時というのは、その直前まで本に主体があるにも関わらず、いきなりヒトが主体に入れ替わって奴隷であることをやめる。
不思議です。多分、哲学の本を読むと答えがありそうですが、そこまで読む気にはなれません。
もうひとつの視点として、ブックマークは出てくるかと思います。
読書を中断する時に、それを置いておく。
ある意味では、想像の世界と現実の世界を繋ぐためのモノとみなせると思います。
コンペでも、多くのヒトがこれを使った案を出してくるのではと予想してます。
俺もひとつの可能性として考えておきますが。