大正時代における「現在」。

今日のゼミでよーやく方向性を決めることが出来ました。

大きな流れの中にあって、それに逆行する研究や作品を残した建築家の作品に絞って見ていくことに。


近代建築へと時代が動いていく中では、それは瑣末な出来事です。

けれど、逆行する流れの中においてはメインストリームであると思います。

明らかに間違っていると知りながら、大勢がそちらへ傾いてしまった。



マイノリティ・リポートみたいな感じです。







「現在」を俯瞰で見ることはとても難しい。

大多数の人にとっては難しい。理解が出来ない。一方的に決めつける。否定する。追い出す。無視する。


何も知らず盲目的にひとつの事柄だけを追うのは、とても幸せ。とてもわかりやすくて、とても親切。理解しあえるから団結も強い。


けれど、「現在」はひとつだけの事柄によって、出来ているのではない。

あらゆる基盤の上に「現在」がある。





まぁいくつかトピックがありますが、これはあくまで、全く個人的な考えのもとで書いた「今和次郎」が置かれた立場。

理解されないことで、悲観的になっていったのか、嘲笑的な感覚を覚えていたのか。

それとも理解して欲しかったのか?



研究とは違ったレベルでも、この人を知りたいと思えました。